勝手知ったる他人の家。セーラー服に身を包んだ少女はガラガラと横開きのドアを開けると、玄関に一足の小さなスニーカーを見つけて頷く。それから自分も靴を脱いで中に上がり込むと、トタトタと足音の聞える縁側に向かう。靴が無かったので分かってはいたのだが、ちらりと覗き込んだ居間には人影は無く、開け放たれた窓から入って来た風が、テーブルの上に置かれた雑誌をペラリペラリとめくっていた。居間を通り過ぎたどり着いた縁側では、赤い髪の少年が汗ばんだ赤い顔で一心不乱に雑巾がけをしていた。

「士郎、一緒に遊びに行こうよ」
「まだ、掃除終わってないから」

 満面の笑顔で放った言葉を素っ気無く切り捨てられ、少女の笑顔が一瞬凍る。

「そんなの後でやればイイじゃんかよー。家事を理由に女の子からの誘いを断るなんて、男らしくないぞ」

 口を尖らせて文句を言う少女。手伝おう、という言葉が一向に出てこないのが彼女らしさ。それの是非は、また別の話。

「わかった。じゃあ、急いで終わらせるから、大河さんは居間でお茶でも飲んで待っててよ」
「りょうかーい。でも、待ってあげるのは少しだけだからね。女の子待たせる男はダメ男なんだから」




 青

い空






「あれ? そのちびっ子はいったい?」

 いつもは自分を除けば一人、または無人の家に二人の人間が居る。それは事件だった。少女は、麦茶の入ったコップを抱え、ぼんやりと自分を見つめる少年を指差して固まる。

「この子は士郎。今日からこの家に一緒に住むんだよ。士郎、彼女は藤村大河ちゃん。僕がお世話になっている人の娘さんだよ」

 普段通りのとぼけた笑顔で、家主の男はそれぞれの紹介をする。

「衛宮士郎です、よろしくおねがいします」

 抑揚の無い声で自己紹介をして、ペコリと頭を下げる士郎。しかし大河はそれを聞いていない様子で、強張った表情を浮かべてなにやらぶつぶつと呟きながら、士郎とその隣に座る男を交互に睨む様に見つめていた。そんな大河の態度に気にした様子も無く、視線を落とし、コップに浮んだ氷が溶ける様をぼんやりと眺める士郎。

「もしかして、この子、切嗣さんの息子ですか?」
「うん、そうだよ」

 ──っけ、結婚されてたんですか!?
 その驚きの声が口から出る前に付け加えられた「今日からね」という言葉に、大河はほっと一息つく。

「この間の大火災で彼の御両親が亡くなられてね、色々縁あって僕が引き取る事にしたんだ」

 川を挟んだすぐ傍でつい先日起きた原因不明の火災は、死傷者、行方不明者等、その数をあげるのも躊躇われるほどの大惨事だった。大河の学校でも数人無くなった人が居たし、その中には彼女の同級生も居た。橋が封鎖されているので火災現場に行く事は出来ないのだが、通学路でもある川沿いの道の対岸にあった筈の見慣れた家々や木々などは全て無くなり、荒涼とした焼け野原に変わっていたのを彼女は見た。そして、気のせいではなく、その道を歩く時に感じる風は未だ焦げ臭い。

「仲良くしてあげてね」

 そう言って笑った切嗣の瞳は少し悲しそうに感じられて、大河は努めて明るく「お任せあれ」と、返事をした。





 任せろとは言ったものの、どうしたものかと大河は思案に暮れていた。竹刀の振り回し方と、痴漢の撃退方なら分かるが、両親を失った少年を慰める方法など今まで考えた事も無かった。眉間に皺を刻み、うんうん唸る彼女。しかしその苦労は徒労に終わる。慰めるべき少年、衛宮士郎は、確かに落ち込んではいたものの、拍子抜けするほど平然としていたから。
 正直気が抜けた。色々と考え、悩んでいた自分が道化に思えた。しかし、それならそれで面倒が無くて良い。いや、むしろその方が都合が良かった。そう、衛宮士郎と言う、突然に現れて切嗣の息子になった少年は、大河にとって非常に都合が良かった。
 それまでは、やれ勉強を見てもらうだの、夕食のお裾分けだのと、何か理由をつけなければ尋ねる事のできなかった衛宮家に、士郎の面倒を見ると言えば、いつでも行ける様になったのだ。大河は士郎をとても重宝した。
 士郎は、それが元からなのか、或いは悲劇のショックからなのか大人しい子供だったが、愛想はよく、素直で、なれない家事にも一生懸命に取り組む、誰の目から見ても『イイコ』であったので、数ヶ月経った頃には大河は彼にかなりの愛着を感じる様になっていた。

「強い子なんですね。沈んだ様子も無いし、心配する程じゃ無い見たい」

 台所で藤村家のお手伝いさんに料理を習う士郎を、微笑ましく眺めながら言う大河。しかし、切嗣はその言葉に首を横に振る。

「僕はそれが返って心配なんだよ……」

 普段はいつでものほほんとしている切嗣が肩を落として悲しそうに言ったその言葉は、喉に引っ掛かった魚の骨の様に、大河の胸に残った。しかし、普段接している分に士郎には別段おかしな様子は見受けられず、彼はいつもにこやかに微笑んでいた。大河は「切嗣さんは心配性だから」なんて言葉で片付、次第にその言葉も彼女の脳裏から薄れていった。彼女が少年の本質を知るのはそれからもう少し後の出来事。

 衛宮家では鳥を飼っていた。士郎が衛宮家に来てから直ぐ、切嗣が彼の為にと買ってきた鳥で、黄色と水色の羽が鮮やかなオスのセキセイインコだ。大河が『ウッズ』と名づけたそのインコは大変人懐っこい性格で、士郎と大河は言葉を覚えさせたりと、とても可愛がった。
 ある日、士郎と大河が夕食の買い物から帰ってくると、ウッズは無残に羽を散らせ、壊れた鳥篭と共に縁側に転がっていた。頭が真っ白になり、次にやってきたのは怒り、それが通り過ぎると涙と共に悲しみがこみ上げて来て、大河はスーパーのビニール袋を放り出して、その場にへたり込んだ。とても可愛がっていたから、とても懐いていたから、とても大切な家族だと思っていたから。
 へたり込む大河の横を箒と塵取りを持った士郎が通り過ぎた。彼はウッズの、彼の大切なペットへ近づくと、おもむろに散らばった羽と、壊れた鳥篭の破片と、そして鳥の亡骸を箒で集め、塵取りに拾い、そして用意していたゴミ袋に捨てた。

「な、なにやってんのよっ!」

 大河の怒声に驚いた士郎は一瞬きょとんとした表情を浮べ、それから納得した様に頷き、それから笑顔でこう言った。

「ああ、鳥肉は生ゴミだよね」





 士郎の壊れた内面を知ると、彼の浮かべる笑みの不自然さにも気がついた。彼はいつでも笑顔だった。共に囲む朝食の席で、途中まで一緒に歩く通学路で、夕食の買い物に行く夕焼けの商店街で、夕食後の団欒の輪で、彼はいつも笑み浮かべていた。彼はいつでも「同じ」笑みを浮かべていた。

「あー、もう、ちくしょうっ!」

 叫んで、怒りに任せて壁を殴る。
 気づかなかった自分にどうしようもなく腹が立った。切嗣の言葉を聞いていた筈なのに今の今まで見抜けなかった事がたまらなく悔しかった。そして士郎に対しても理不尽な怒りが込み上げて来た。
 士郎が死んでしまったら、大河はきっと泣くだろう。あの大火災で亡くなった同級生の葬式の時よりも大泣きするだろう。彼女には彼の亡骸を前に、恥ずかしげも無く大泣きする自分が用意に想像できた。しかし、士郎はどうだろうか? もし彼女が死んだ時、士郎はどうするのだろうか?

 ────ああ、大河さんは生ゴミだよね。

 無表情な笑顔でそんな風に言う士郎が脳裏を過ぎる。何だか酷く裏切られた気分になって、大河はもう一度、さっきよりも強く壁を叩いた。





 それから数日間、大河は衛宮家に姿を現さなかった。切嗣が雷画に聞いた話では、特に体調が悪いとかそういう事ではないらしかったが、それにしても、士郎はあまりにも無関心に大河の居ない日々を過ごしていた。彼女から電話があったのは、士郎が彼女に最後に会った日、ウッズが死んでから十日が過ぎた強い雨の降る午後の事だった。

 大きな黒い蝙蝠傘を差して、雨にけぶる道を歩く。灰色の空は機嫌悪そうにゴロゴロと唸り声を上げている。水を吸った靴は重く、一歩踏み出す度にグチュグチュと音を立てるのが不快だった。

「こんな雨の日に態々人を外に呼び出すなんて……、何を考えてるんだろう? あの人は」

 纏わり付く不快感を大河の所為にして精神の安定を図る。実際、半分は大河の所為なのだが……。

「もしもし、衛宮です」
『士郎? 私だけど』
「大河さん、どうしたの?」
『今すぐ、裏山の頂上に来なさい』
「裏山? この雨の中を?」
『いいから直ぐに来なさい。来なかったら竹刀で滅多打ちだからね』

 一方的に用件を押し付けて電話は切れた。そしていま、士郎は言われた通りに裏山を目指して、大雨の中を歩いている。既に傘は差していない。風が強くて、差していても横から打ち付ける風で全身びしょ濡れになってしまったからだ。
 雨にも負けず、風にも負けず、歩き続けて二十分。ようやく目的地へとたどり着いた士郎は辺りを見回して大河を探す。士郎の通う学校の裏手の、丘と呼ぶには大きく、山と呼ぶには小さいその場所は、生い茂る木々の中で頂上付近だけぽっかりと開けていて、その中心にはその山で一番の大木が天を貫くように立っている。頭上から雨粒と一緒に降って来た大河の声に、士郎はその大木を見上げる。どうやって登ったのか、大河は士郎の遥か頭上、木の上で踏ん反り返っていた。

「ふふふ、来たわね、士郎」
「脅されたからだよ。で、何の用なの?」
「ここまで登ってきなさい。話はそれから」

 ひしひしと嫌な予感を感じながらも、士郎は言われた通りに木を登り始める。濡れて滑るわ、風が横から押すわの悪状況の中、士郎は少しづつ、慎重に慎重を重ねて登り続け、かなりの時間を掛けてようやく大河の元まで辿り付いた。

「ハァ、ハァ、来たよ、で、何か用?」
 良き絶え絶えに、嫌そうに、面倒くさそうに士郎が問いかけた刹那、良いタイミングで迸った稲光と共に、大河は電光石火の早業でポケットから取り出した手錠の片方を士郎の腕にかけ、もう片方を自分の腕に掛ける。それはプラスチックで出来た玩具ではなく、その磨かれた金属の輝きと、腕にかかるずっしりとした重みは正しくホンモノのそれ。

「な、なにをっ!?」
「今から士郎には、私と一緒にここから飛び下りてもらいます」

 慌てる士郎を他所に、大河は遥か足元に見えるぬかるんだ地面を指差してそんな事をのたまった。





『きっと、彼の半分はあの炎の中で燃えて灰になってしまったんだろう。体は無事だったけど、心は死んでしまったんだ。うん、なんとかしなくちゃいけないのは分かってる。でも、どうしたら良いのかが僕には分からない。情け無い話だけど、人を生かす方法なんて僕には分からないんだ』

 士郎の事を相談すると、切嗣は指が白くなる程に拳を握り締めてそう語った。

『逆の事は簡単なのにね……』

 そう呟いて自嘲気味に笑った切嗣が、大河にはとても小さく見えて、何だか無性に悲しくなった。
 朗らかな、春の陽だまりみたいに思っていた切嗣を、ここまで落ち込ませる士郎に対して嫉妬交じりの怒りを感じ、それと同時に湧き上がるのは、壊れた心を抱え、泣く事も出来なくなった哀れな少年へ同情。
 だったら自分が何とかしてみせよう。私が死んだ時、絶対士郎に大泣きさせてやろう。大河は良く分からない使命感と、やり場の無い怒りと、悔しさを持って、そう決心した。





「今の士郎は、言うなればゾンビなのよ」
「なにそれ?」
「半分なんて中途半端だからいけないのよ。いっそ、全部死んだ方がすっきりするでしょ?」
「僕はちゃんと生きてるよ? 息をしてるし、心臓だって動いてる」
「ちゃんとですって!? 笑えもしない、泣けもしない人間がちゃんと生きてるですって!? ふざけんじゃないわよ!」

 士郎の襟首を掴んで、大河は噛み付くような勢いで怒鳴った。その瞳には明らかに怒りの色が浮んでいる。しかし、その瞳に射抜かれてなお、士郎は怯えた様子もなく、冷めた笑みを浮かべているた。

「ふざけてなんかいない。大河さんには僕の気持ちなんて分かんないよ」
「分かんないわよ、そりゃ、私は血の繋がった家族は居るし、死ぬような目にあった事も無いもん、分かる訳ないじゃない。でも、だけど、分かりたいよ。わたし、士郎の事もっと分かってあげたい」
「僕は、分かって欲しいなんて思ってない」

 士郎はにべも無く、大河の言葉を切り捨てた。

「ふふん、そんな強がりも今日までよ。士郎は今日これからわたしのことちょーー好きになるんだから。あのね、前に学校の友達に聞いたんだけど、つり橋の上で男の人と女の人が会うと、怖くてどきどきするのを恋のどきどきと勘違いして、相手を好きになっちゃうんだって」
「知ってるよ、テレビで見た。つり橋効果って言うんだって」
「でね、わたしは思ったワケ。つり橋渡るくらいの怖さで人を好きになれるんなら、死にそうな程怖い目にあったら? って。どうなると思う?」

 そこまで行くと、どきどきしてる余裕なんて無いのでは? 士郎はそう思ったが口には出さなかった。目の前で得意げな顔を浮かべる彼女には、どんな言葉も言うだけ無駄に思えたから。それでも込み上げる言いようの無い虚脱感に、小さな溜息が一つ。吐き出された白い息は、寒空の向こうへ消えて行った。

「士郎はきっとわたしを好きになる。わたしも士郎を今より好きになるよ。お互いに今は言えない事も言い合える様になって、士郎の事、今より分かってあげられるよ。そうしたら──」

 大河はグイっと士郎の頭を引き寄せ、

 ────きっと、士郎を笑わせる事だって、出来る様になるよ。

 そう、耳元で囁いた。

「大丈夫よ、きっと。このくらいの高さなら余程運が悪くない限り、死ぬ事なんて無いから」

 ウィンクと共に、「まぁ、骨の1本や2本はサービスしてあげてよ」などと、聞き捨てなら無い言葉を付け足して笑う大河。

「んじゃ、行こうか?」

 とうっ! なんて掛け声一つ、彼女は士郎の言葉を待たず、彼の心の準備が整うのも待たずに、彼を抱えて飛び降りた。それはまるで近所のコンビにジュースでも買いに行くかの様な気軽さで。





「衛宮さんは──」
「切嗣さん、って呼んで欲しいなぁ。いや、嫌だって言うなら無理強いはしないよ」
「……き、切嗣さんは、神様って信じてるの?」

 衛宮家に来て間もない頃の事だった。社会科の勉強を教わっていた大河が、話の流れで何気なく発したその言葉に、切嗣は顎に手を当てて考え込む。果たして、暫しの沈黙。俯き思案する切嗣と、そんな彼を不思議そうに見つめて答えを待つ大河。種々様々に雑多な音を吐き出し続けるテレビだけが、独り静けさに抗う。数分間考えた続けた後、ようやく切嗣は口を開いた。

「神様は居るよ」
「え、居るんですか?」
「うん、きっとね」

 見た事も、会った事も無いけどね? と肩を竦める。

「そう言う大河ちゃんはどうなんだい? 神様を信じてる?」
「神様なんて居る訳無いですよー。だって、神様助けて! ってお願いして、助けて貰った事一度も無いですから。もし本当に居るなら、こんなテスト勉強なんてやんないで神様にお祈りに行ってますって」
「そんなもんだよ。神様なんて」
「でも、切嗣さんは信じてるんでしょう? 神様を」
「信じてるって言葉をどういう意味に取るかによるね。居るとは思うよ。でもね、だたそれだけさ。僕はそれが人を助けてくれるとは思わない。結局、人は人によってしか救われない。それは当たり前で、そうでなくちゃいけないと僕は思うんだ」

 ────だって、そうじゃないと寂し過ぎるだろう? 僕らが生きるこの世界は。





「うわ、うわ、うわー! めっちゃ怖かったよぉ!」

 腰が抜けた大河は、雨に打たれながら、ぬかるんだ泥の上に寝転んでいた。もうこれ以上泥に塗れても気にならない程に、服も髪もドロドロだった。

「うん。怖かったから、ちょっと泣く」

 唇をかみ締め、声を殺して彼女は泣いた。涙は雨が洗い流してくれるから、それに任せる。自分はちょっとだけど泣く程に怖かったのに、隣に居る士郎が余りに平然としているのが気に食わなかった。せめて泣き声だけは上げないようにと、懸命に堪える。

「士郎は、怖かった?」
「怖かったよ」
「士郎も泣く?」
「泣かない」
「…………そっか」

 それから二人は黙って灰色の空を眺めていた。まるでその分厚い雲の向こうにある何かを探すように。時折迸る稲光、やがて遅れて訪れる轟音。ちぐはぐだな、と大河は思う。まるで今の自分たちの様だと笑う。
 雨が弱まってきているのを感じて、大河は体を起こす。山の上から見た遠くの空は明るくなって来ていた。時期に風も止んで、空は今までの鬱憤を晴らすかの如く青く青く光るのだろう。それは別に嫌な事ではなく、この身を刺す肌寒さから考えればむしろ歓迎すべき事ではあったが、大河は何だかこの雨を名残惜しく思った。だから、雨が止む前にと、もう一度士郎に聞いてみた。

「士郎、どきどきした?」
「ちょっとだけね」
「士郎、私の事好きになった?」
「……ちょっとだけ、ね」

 望んだその十分の一くらいの結果だったけれど、今日の所はこれくらいで勘弁してやろう。
 悔しくて、でも少し嬉しくて、再度寝転んだ大河は早速次なる作戦を考え始めた。





「雨、止んだねぇ」

 どれくらいの時間そうしていたのか。降り注ぐ暖かな日差しに全身を愛撫されながら、二人は未だ手錠で繋がったまま並んで寝転んでいた。つい先ほどまで好き放題に風雨を撒き散らしていた黒い雲は、今や陰も形も見えず、澄み切った空を、その澄明を称えるが如く鳥達が飛び回る。木々の葉に残る雨の名残は陽の光を受けてきらきらと輝き、大河は眩しさに目を細めた。

「空、青いねぇ」
「うん……。空ってこんなに青かったっけ?」

 少年の脳裏に深く深く刻まれているのは、夕焼けよりもなお赤く焼けた空。

「馬鹿ね。俯いてばっかりいるから、空の青さも忘れちゃうのよ」
「じゃぁ、今日のこの空をずーっと、ずーっと覚えておくよ」

 大河は上半身だけ起こす。肌寒さは感じなくなったが、未だ水分を多量に含んだままの着衣が肌に張り付き気持ち悪い。そういえば、と思い出し、ポケットに手を入れて指先に感じる硬く冷たい感触を確認する。手錠の鍵だ。取り出したそれで手錠を外すと、大河は自分の両手で士郎の両手を包み込む。小さい、小さくて冷たい手だった。

「ねぇ士郎、もし私が死んじゃったら泣く?」

 士郎の瞳に写る自分の姿を確認する様に、彼の顔を覗き込んで大河は尋ねるた。
 一瞬考え込んだ士郎は、大河の瞳を見返して、そして今までに大河の見た事の無い、とても意地の悪い生意気そうな顔で言った。

「大笑いしてやる」





「しっかし、大河さんって本当に考えなしの人だよなぁ? 絶対ネジ何本か外れてるよ」

 麗らかな午後の日差し降り注ぐ衛宮邸の縁側。硬く雑巾を縛りながら、士郎は独り自分の言葉に頷く。

「そういえば、義父さんも、あの日、びしょ濡れの泥塗れで帰ってきてたけど、いい大人が何やってたんだろう?」

 雨上がりの衛宮邸門前で、出くわした息子にばつの悪そうな顔を向けていた切嗣を思い出す。彼は次の日から数日間風で寝込み、看病してくれた息子に感動の涙と鼻水を流していた。

「しろー、早くー!」
「もうちょっと待って。っていうか、そんなに言うなら大河さんも手伝ってよ」
「もー、お姉ちゃんって呼びなさいって言ったでしょー」
「へーい。って、手伝う気は無いんだ。やっぱり」

 少し手を休めて、士郎は空を見上げた。雲ひとつ無い快晴の空に、太陽だけが燦々と自己主張している。手をかざして、その眩しさに目を細める。

「今日もいい天気だなぁ」

 満足そうに呟いて、士郎は姉の待つ居間へ向かった。





END





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