少女にとって「生きる」とは「呼吸を続ける」とか「心臓を動かす」といった動作の延長線上に転がっている小石の様なものだった。生きているとは、死んでいないという事。死ねないから、まだ生きている。殺されないから、まだ生きている。その程度の認識、その程度の執着でしかなかった。

 彼女が物心ついた時、彼女の認識できる世界には苦痛しか存在しなかった。彼女の日課はその身を襲う激痛に泣き喚き、そのメロディーで支配者を満足させる事、ただそれだけだった。支配者である老人は、彼女が泣けば泣いただけ、喚けば喚いただけ、その濁った瞳に狂乱の愉悦を浮かばせて攻め手を強めた。彼女が死なない程度に、彼女が狂わない程度に。それは一流のシェフが操る調味料の如く、絶妙なさじ加減で。
 しかし、延々と繰り返される地獄にあって彼女はだたの一度も絶望する事はなかった。力は無かった。知識も無かった。味方は誰一人として居なかった。だから、なのだろう。希望なんて一欠けらも見出せなかったから、絶望する事は無かった。いや、絶望する事すら出来なかった。

 けれど、彼女は出会ってしまった。

『──これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ』

 それはいつからだったのだろうか。気づいた時には既に手遅れだった。暗い暗い闇の中に開いた針の穴、そこから差し込む微かな一条の光は彼女が見つけた初めての希望。────それは絶望の始まり。




 N

ights of the knife






「ただいまー」

 その日は急に弓道部の練習が休みになり、いつもより早い帰宅だった。カラカラと横開きの扉を開けると玄関には男物のスニーカーが一足だけ。半同居人である大河は当然まだ学校で仕事中であるが、同居人であるライダーもどうやらどこかへ出かけている様だった。靴を脱ぎ、少し足早に居間へ向かったがそこに士郎は居らず、テーブルの上にはライダーが残していった書置きが一枚。

『雷画のところへ行って来ます』

 白い紙には驚くほどの達筆でそれだけ書かれていた。

 離れにある自室に戻り、鞄を置いて制服を着替えると道場へ向かう。士郎は寝るとき意外は自室に居る事は無く、彼の第二の部屋ともいえる土蔵も夜以外には滅多に居る事は無い。居間はさっき確認したので残るは道場しか無いと、彼女は足取りも軽くそこを目指す。
 家で二人きりになれたのは久しぶりだった。決して大河とライダーを邪魔だと思った事は無いが、彼と二人で過ごす時間は桜にとって特別であり、また、家に二人きりというのは滅多に無い貴重な事だった。自然と緩む頬を自覚しながら、少しだけ開いた扉の隙間からこっそりと道場の中を覗き込んだ。





 衛宮士郎と間桐桜の出会いは偶然では無く、仕組まれたものだった。その企みすらを含めて運命と呼ぶ程に少女はロマンティストではなかったし、別段その出会いに感慨や感動を抱く様なエピソードは無かった。それは今思い返しても同じだ。放課後のグラウンドで見た一心不乱に高飛びをする少年。その姿に心動かされた自分が居たのは確かであり、監視を命令された対象がその少年だった事に驚きはしたものの、それ以外にはこれといって印象に残る出来事ではなかった。その時はまだ衛宮士郎は間桐桜にとって「特別」ではなかったから。

 半ば押しかける様な形で衛宮家の一員となった桜は、その日からほぼ毎日様に彼の元へ通った。それまでした事のなかった料理を彼に習い、好きでも得意でもなかった掃除等の家事を覚えた。最初は追い出されない様にと必死だった。少しコツを覚えて慣れてくると段々楽しくなってきた。

「がんばったね」
「良くできたね」
「うん、美味しいよ」
「ありがとう」

 士郎に褒められるのが、士郎にお礼を言われるのが嬉かった。「嬉しい」「楽しい」そんな風に思う感情はとうに自分の中から無くなったと思っていたのに、彼は実に自然に、簡単にその感情を呼び覚ました。士郎が笑いかけてくれるのがたまらなく嬉しかった。そして、その笑顔に自然と微笑返す自分に彼女が気づいた時、衛宮士郎は間桐桜の「特別」になった。





 飴色に染められた道場は静まり返っていたが、張り詰めた感じはなく空気は穏やかだった。窓から差し込む夕日を受けて長く伸びる影の先には、ただ一人で竹刀を構える士郎の姿。素振りをするでもなく、正眼で構えた彼は真っ直ぐにその切っ先を見詰めている。微動だにせず、竹刀を構えたままでオレンジ色の光に焼かれるその姿を、桜は凍りついたようにいつまでも眺め続ける。
 その時、彼が何を想い何を考えていたのかを他人である桜に窺い知る事はできなかったが、その構えた剣の先に凛然と対峙するもう居ない筈の少女の幻が見えた気がして、ようやく金縛りから解けた桜は逃げ出す様にその場を後にした。

 泣きたかった。でも、泣けなかった。ベッドの上に倒れ込み空ろに天井を眺めると、いつかの夜が思い出される。自分を殺す為に空っぽの殺意を向けて、今にも泣き出しそうな顔でナイフを振り上げる士郎。息を殺して、彼による救いを、解放を待つ自分。結局、彼には桜を殺す事はできなかった。守る、と縋る様に言う士郎が愛しかった。でも、自分を楽にしてくれない彼が恨めしかった。士郎は桜を殺せなかった。士郎は桜の為に「彼女」を殺した。そして今、桜は士郎と共に在り「彼女」はもうこの世界の何処にも居ない。

「ずるいですよ、セイバーさん……」

 どんな言葉も、どんな思いも、もう彼女には届かない。





 夕食の後片付けも終わり、家族で寛ぐ団欒の一時。真剣な表情で食い入る様に大河が見入っているのは、巷で話題のドラマの最終回。生きる事に絶望した少年と、不治の病で余命いくばくも無い少女との恋愛という使い古されたテーマだが、主役を演じる男優の人気と主題歌のヒットに後押しされて今期一番の人気を誇っていた。士郎とライダーはこの手のドラマは趣味では無いらしく、興味なさ下に画面をぼーっと眺めている。桜も主役の男優があまり好きではない事と、ヒロイン役のアイドルの演技の下手さに辟易して、この作品には早々に興味を無くしていた。

『最後に海に行きたいな』

 もう起き上がる事すら出来なくなった少女を抱いて、青年は海を目指す。ポツリポツリと力無い声で思い出を語る少女。画面は青年の首に回された少女の腕と、黙々と歩みを進める青年の靴だけを交互に映す。やがて少女の語りは止まり、抱いた腕の中で徐々に徐々に消えて行く彼女の命の灯を感じながら、青年は笑顔で彼女に告げた。

『着いたよ。見えるかい? 聞えるかい?』

 その言葉に少女は頷く。

『綺麗ね、とてもとても青い』

 それが最後の言葉となり、彼女は微笑を残して息を引き取る。そしてテーマソングが流れ出し、灰色の空の下で海でも何でもないアスファルトの路上にうずくまり声を殺して無く青年の姿を映してドラマは終わった。

「っひ、っひっく、うわあぁあぁぁぁん! マリちゃんがっ、マリちゃんが死んじゃったよ、士郎!」
「な、なにドラマなんかで泣いてんだよ、いい歳して」
「だって、だってマリちゃんが死んじゃったんだよ!? 良い子だったのに、奏一君も川原先生も頑張ったのにっ!」
「あーはいはい、かわいそうですね」

 鼻水を啜りながら号泣する大河を面倒くさそうにあしらい、士郎はテーブルの上に広げた雑誌に視線を戻す。因みに奏一とは主人公の青年の名前、川原先生とはヒロインの少女の主治医の名前であり、どうでも良い事だが大河はこの川原医師を演じるベテラン俳優のファンである。

「士郎の鬼! 冷血漢! 甲斐性なし! ムッツリスケベッ!」

 的外れな罵詈を残して大河が居間を出て行き、部屋は平静を取り戻た。ついさっきまで悲恋劇を映していた四角い箱は持ち前の節操の無さを発揮して、今は若手のお笑いタレントによるバラエティー番組を流している。肩を寄せ合い雑誌を覗き込んで何やら話し合っている士郎とライダーを横目に、桜は温くなったお茶を啜る。チャンネルを変えるも、興味のある番組はやっていなかった。

「ライダーはあのドラマどうだった?」

 桜は手持ち日沙汰に耐えかね、ライダーに話題を振る。

「そうですね。所々納得のいかない場面もありましたが、そういう細かい部分を抜きにしてもあのヒロイン役の女優の演技は酷かった。それは台詞回しだけではなく細かい仕草や表情など全部に言える事なのですが、彼女の演技は演技過剰というか不自然でした。その所為で彼女は画面の中で一人浮いていたし、彼女が出ている場面は雰囲気が台無しになっていた。雰囲気の壊れた悲劇程滑稽なものはありません」

 ヒロインを酷評するライダー。興味無さそうにしていたが、実は結構ちゃんと見ていたらしい。

「先輩はどうでした?」
「いや、俺はあのドラマ全然ちゃんと見てなかったぞ。あ、ヒロインの演技が下手ってのは学校のヤツらも言ってたけど。それに俺はあーいうお涙頂戴モノは好きじゃないから、きちんと見てても感動できなかっただろうしなぁ」
「あ、じ、じゃぁ先輩。もしも────」

 それはただの好奇心、他愛の無いいつもと同じ夕食後の会話でのやり取り。





 大河は自宅へ戻り、士郎はいつもの様に土蔵へ。二人きりになった衛宮家の居間では、桜が風呂上りのライダーの長すぎる程に長い髪を丁寧にドライヤーで乾かしていた。優しく梳る桜の手を心地よく感じながら、ライダーはブラッシングされる猫か犬の様にされるがままで目を閉じている。長さが長さなのでかなり面倒な作業なのだが、桜はニコニコと鼻歌交じりに手を動かす。同性ですら嫉妬を通り越して魅了される程の容姿を持つライダーの髪は、見た目の艶やかさ同様に手触りも極上。桜はライダーの髪を触るのが好きだった。

「ねぇライダー。セイバーさんとの戦いで、最後に止めを刺したのって先輩だよね?」
「ええ、そうですが……」

 前置きも脈絡も無く出た桜の意外な質問に訝しむライダーだが、表情には出さずに淡々と答える。

「先輩、泣いてた?」
「いいえ、彼は最後まで毅然としていました」
「ふーん、そう……」

 その問いにどんな意図があったのかを思案するライダーに桜は素っ気無い返事を返し、それっきり会話は途切れた。





 『────シネ』

 闇の中から聞えた声。それは水面に落ちた雫の如く波紋を広げ、それまで何も無かった漆黒はたちまち呪詛に飲み込まれる。

『シネ、シネ、シネ、シネ、シネ、シネ、シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ──────死ね!』

 耳を打つ怨嗟、心臓を鷲掴みにする様な殺意。それらは渦となってうねり、嵐となって猛り狂い、獣となって食らい付く。狂気は凶器となって彼女の体を貫き、引き裂き、砕き、磨り潰し、焼き尽くし、その様を眺めて陵辱者たちは狂喜する。それは彼女が毎夜見る夢。彼女の悪夢。ワンパターンな悪夢。もう見慣れた、見飽きた悪夢。

「うるさいなぁ、もう」

 こんなのに比べたら、あのつまらないドラマの方がまだマシだ。見えない顎にその身を喰いちぎられながら、桜はのんびりとそんな事を思う。

 間桐桜は常識は持ち得ているが、生憎と良識は持ち合わせていなかった。常識、道徳とはルールであり、それは知識として知る事はできる。しかし良識は環境の中で培われるものであり、彼女が置かれていた環境で─一般的に見て─まともな良識が育つ筈は無かった。
 ある事柄について『それをしてはいけない』という事を知っていても、何故いけないのかを理解する事は出来ない。禁止という言葉はあっても禁忌は無い。それが間桐桜という人間だった。

『──帰ろう桜』

 溢れる呪詛をかき消して、とても、とても優しい声が聞えた。それは闇を引き裂く光となり、汚濁を押し流す清流となり、桜を蹂躙した。

「違うっ!」

 あらん限りの力で叫ぶ。

『───そんなヤツとは縁を切れ』

「先輩は何にも分かってないっ!」

 声はもう悲鳴となっていた。

 闇が洗い流され光に満たされた世界────キレイナセカイ。そこに桜の居場所は無かった。





 月が綺麗な夜だった。

 幼い頃、月が自分を監視する瞳の様に思えて逃げようと走った事があった。結局逃げる事など適わず、布団に包まって窓から覗く月に怯えて震えていた。そんな事を思い出して、クスリと笑う。
 ベッドに横たわり窓から見上げた月は、清蒼な光を煌々と湛えて悠然と夜空に浮かんでいる。怯えなど微塵も抱く事無く、その清廉さにただ憧れ、嫉妬した。

「本当に、羨ましい……」

 月明かりに蒼く染められた夜の世界で、手にした刃だけがギラギラと歪に輝いていた。

「ごめんなさい、お掃除大変ですね」

 蒼い世界を侵食する紅をぼんやりと眺めながら、見当違いな謝罪を呟く。

 月がとても綺麗な夜だった。





 眼を覚まして最初に眼に入ったのは自分の部屋のとは違う見覚えの無い天井だった。起き上がろうとするも体に力が入らず、首だけを動かして辺りを観察する。無機質で神経質なまでに白い内装、鼻をつく消毒の匂い、左手首に巻かれた包帯。桜は自分が病院に居る事を理解する。

「桜……」

 声をかけられて、隣に居た士郎の存在にようやく気づく。

「なんで……」

 弱々しい声で尋ねる士郎に、桜は血の気の無い笑顔で答える。

「月がね、月がとっても綺麗だったんですよ」

「──っ!っく、う、うぅ、うあぁ……」

 士郎はベッドに顔を押し付けてしゃくり上げる。

「先輩、泣いてるんですか?」
「泣いてなんか、いない」

 優しく労る様に頭を撫でながら尋ねる桜。
 士郎は顔を伏せたまま震える声で否定する。

「あは、先輩泣いてる」

 桜は笑った。
 とても、とても嬉しそうに笑った。









 ────あ、じ、じゃぁ先輩。もしも、もしも私が死んじゃったら、泣いてくれますか?

 ────さぁ、どうだろうな?





END





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