もうすぐ春だと言っても、まだまだ朝の日が昇る前の寒さは冬のそれだった。縁側に座って空を眺めれば、雲ひとつ無い薄紫の空の向こうから、朝焼けのオレンジ色の光が徹夜開けのぼやけた視界を焼いた。吐く息は白く、空気は刺すように冷たく、エセ神父に刺された傷はジンジンと疼く。
 ふらつく足で当てもなく家の中を彷徨う。居間、彼の部屋、道場、土蔵、風呂、トイレ、その何処にも人は居なかった。今この家にはわたし一人しか居なかった。
 居間に戻ってテレビを付けてみるが、やはりというか、当たり前だが四角い箱の中のスーツの男はわたしの欲しい情報を伝えてはくれない。
 テレビを消し、静寂の中で思考に沈む。わたしが今日と言う日を無事に迎えていると言う事、それは彼があのエセ神父どもを倒したと言うことに他ならない。ならば何故彼らは帰ってきていないのか。
 それは──

「来ないなら、迎えに行けばいいんじゃない」

 ジクジクとシミのように広がる嫌な思考を振り切るように、努めて明るく声に出す。
 そうだ、心配することなんて無い。セイバーは最強と謳われるサーヴァントなんだから、幾ら相棒があのトーヘンボクでもあんなクサレエセ神父くらいチャッチャと倒している筈だ。
 それより何より、わたしがあそこまで手を貸してやったんだから勝たなければおかしい、勝つに決まっている。
 パチンッ! と両手で自分の頬を思いっきり叩いて、ボーっとした頭に活を入れる。

「わたし、待つのって嫌いなのよね」

 誰に言い聞かせるでもなく呟くと、足早に洗面所へ向かう。
 洗面台の鏡に映る自分は、何時もの寝起き以上に酷い顔をしていた。

「うっわ、隈なんて作ったの何年ぶりかしら」

 全く、他人の事が心配で眠れないなんてわたしも結構カワイイところあるなとじゃない、と自嘲気味に鏡の中の自分を笑う。
 冷たい水で顔を洗い、簡単に髪を整え終えた所で玄関から扉の開く音が聞こえて来た。
 その瞬間、ドキンッ、と心臓が強く脈打った。
 逸る気持ちを抑えながら─大急ぎで走っていくなんて、何だか悔しいから─、それでも幾分早足で玄関を目指す。世間一般の家に比べれば結構大きいこの家だが、まさか廊下が何百メートルもある訳はなく、ほんの数秒歩いただけでわたしは玄関に腰を下ろして靴を脱ぐ彼の元にたどり着いた。

「お帰り、遅かったわね」

 言ってからしまったと思った。
 我ながら何かもっと気の聞いた台詞を言えなかったものかと。

「ただいま。もう起きてたんだな、遠坂」

 そんなわたしの葛藤もお構いなしで、彼は靴の紐を解きながら極めて平然と、平凡な言葉を返した。

「セイバーは?」

 わたしはもう答えの分かりきった質問を敢えてする。それを口にさせる事が、彼にとってどれ程残酷な仕打ちであろうとも。

「──帰ったよ」

 一瞬の躊躇のあと、首だけで振り向いた彼は答えた。

「笑ってたよ」

 そう言った彼もまた、笑顔を浮べていた。
 わたしは『そう』と素っ気無く返事を返しただけだった。それ以外に返す言葉が浮かばなかったから……。
 わたしたちにとって、一生忘れられないであろう冬の出来事はそうして終わりを告げた。




 M

oon Marguerite






「ぁふわぁ……」

 手で口元を隠しながら小さく欠伸をする。別に周りに人がいるワケじゃないけど、油断大敵、何処に誰の目があるか分からないし、まぁ、乙女の嗜みってヤツかしらね。
 眠い目を擦りながら、もうすっかり暖かくなった何時もの通学路を歩く。あれから2ヶ月、小さな変化はあったものの、それ以外は拍子抜けする程以前と変わりなく、わたしたちは日常を過ごしていた。  
わたし自身に関して言えば、宝石を使い切ってしまった為に家計が苦しくなった事と、少し早起きをする様になった事、それくらいだ。
 彼に至っては全くと言うほど変わりなく、以前と同じ様に『仕方ないなぁ』なんて言いながら、他人の世話を焼く毎日を過ごしている。本当なら安心していい事の筈なのに、それが何故だか、わたしを苛立たせた。
 丘の上から続く坂道を降りきった所で、何時も通りの時間に登校してきた彼と出会う。

「おはよう、遠坂。今日も時間ぴったりだな」
「おはよう、衛宮くん」

 何時もの様に簡単な挨拶を済ませて並んで歩き出す。
 二人の間に余り会話はない。何か面白い話題があれば別だが、無いなら無いで無理に会話をしようなどという気は無く、かと言ってその沈黙は決して息苦しい物ではない。
 わたしは横目で隣を歩く彼の顔をちらちらと伺いながら、数日前の会話を反芻する。

 ──ああ。未練なんて、きっと無い。

 それでも──こんな事があったと、セイバーっていうヤツが好きだったって事だけどは、ずっとずっと覚えてる。

 強がるでもなく、開き直るでもなく、穏やかな表情でそう言った彼の瞳はとても清々しい光を放っていた。
 その光が小さな棘となって、わたしの胸を挿す。

「轢かれるぞ、遠坂」

 後ろから引っ張られ、はっとするわたしの前をトラックが通り過ぎていく。
 いけない、また考え込んで周りが見えなくなっていたらしい。

「ぼーっとしたりして、らしくないぞ?」
「ちょっと、寝不足なのかも。昨日遅くまで勉強してたし」

 在り来たりな言い訳で取り繕うわたしに、彼は訝しげな視線を向けてくる。

「最近何か考え事してる事が多いけど、何か悩みとかあるんじゃないのか?」
「あら、わたしのことよく見てくれてるのね」
「俺はそんなに信用ないのか?」

 何時もの様に顔を赤くしてオロオロする事無く、彼は真剣な眼差しでわたしを見つめてくる。
 彼は本気で心配してくれているのだろう。まったく、ご苦労なことだ。

「安心して、貴方の事は信用はしてるから。……信頼はしてないけど」
「っちぇ、悪かったな、どうせ俺は半人前だよ」
「いじけてる暇があったら、さっさと教室に行って数学の教科書開いたら? 1時間目に小テストがある事なんて、貴方の事だから忘れてるんでしょう?」
「っげ、何だそれは!」

 予想通りにテストの事を失念していた彼は凍りつく。彼の進路は知らないが、仮にも受験生がそんなんで良いのだろうか?

「すまん遠坂、先に行く」
「精々悪あがきしなさい」

 駆けていく彼の背中を、わたしは苦笑しながら見送った。





「遠坂さんって、隣のクラスの衛宮くんと付き合ってるんですか?」

 昼休み、屋上で綾子とご飯を食べていたわたしの所に、進級後も同じクラスになった三枝さんがやってきてそんな事を聞いてきた。

「ッブーーーー」
「うわ、キタナッ! 何するんだよ!」

 不意打ちに、思わず飲んでいた牛乳を吹き出してしまう。

「ご、ごめん」

 慌ててポケットから取り出したハンカチで綾子の制服を拭う。
 ああ、わたしとした事が、なんという失態。聖杯戦争という人生の目標が無くなって気が緩んでいるのかしら?

「ああ、もういいよ遠坂。それより早く質問に答えてあげな」

 嫌らしく口元を歪めた綾子は『実は私も興味あるんだ』などとのたまいながらわたしを促す。
 粗相してしまった手前綾子に食って掛かる事もできず、わたしは渋々質問に答えた。

「別に、そんなんじゃないわよ、彼は」
「毎朝一緒にと登校してくる二人が、ただのお友達とはねぇ」

 ニヤニヤと嫌らしく笑いながら茶々を入れる綾子。
 いつもなら睨んでやる所だけど、三枝さんの手前、珍種のネコを飼っているわたしに今はそれができない。

「疑うんなら何なら彼にも聞いてみれば? きっとそんなんじゃないって必死で否定してくれる筈よ」

 自分で言っておいてなんだけど、顔を赤くして、オタオタしながら全力で否定する彼の様子を思い浮かべて少し腹が立った。

「分かったわ、ありがとう。ゴメンね、変な事聞いて」
「良いのよ、別に」

 彼女はほにゃっとした柔らかい笑みを残し、屋上を出て行った。
 後に残されたのはニヤニヤと笑い続ける綾子と、微笑みを顔に張り付かせたわたしの二人。

「何よ、何か言いたい事でもあるのかしら?」
「いや、別にぃ」

 ああ、これが士郎相手なら問答無用でガンドをぶち込んでる所なのに。
 怒りを鎮めるべく、深く深呼吸して頭上を見上げると、そこには雲ひとつ無い蒼穹が広がっていた。
 その穢れない青さが、わたしの胸を締め付けた。

「しょうがないか、私もアンタも初心者だからね」

 その言葉に聞こえない振りをして、わたしは昼食を再開した。


 茜色に染まったレンガ通り、その先に見知った顔を見つけてわたしは歩みを速めた。向うもわたしに気づいているらしく、ペコリと頭を下げてくる。

「こんにちわ、遠坂先輩」
「こんにちわ、桜。今日は部活は?」

 今年から弓道部女子の副主将にも抜擢され、精力的に部活に取り組んでいる彼女がこの時間に商店街に居るのは珍しい。まぁ、彼女に限ってサボりというのは考えられないが。

「今日はミーティングだけで練習は無かったんです。それで、せっかく早く帰れたので今日は少し手の込んだ夕食にしようと思って」

 両手にぶら下げたスーパーの買い物袋を少し持ち上げてみせる桜。ぎっしりと様々な食材が詰まっているのであろうその袋はかなり重そうで、ここから衛宮家へ歩いて持って帰るのはかなり大変そうだった。

「重そうね」
「えへへ。ちょっと張り切りすぎちゃいまして、買い過ぎてしまいました」

 アレもコレもと楽しそうに献立を考えながら、カゴを山盛り一杯にしていく様子が目に浮かぶ。
 本当に、彼の為に何かをできるというのが嬉しいのだろう。呆れるほどの献身さだ。

「毎日毎日良くやるわね、貴方も」
「好きでやってる事ですから、大変だなんて思ったこと無いです」

 冷やかすことも、からかう事もできなかった。柔らかに微笑んだ彼女は、本当に幸せそうだったから。

「遠坂先輩もお買い物ですか?」
「そ、ちょっと本屋に。あと花を買いに、ね」
「お花ですか?」
「知り合いからの頼まれ物よ」

 今日は神父に呼び出されていて、コレから教会に行かなければならないのだが、その神父に頼まれたのだ。あの教会は殺風景で心が荒むから、花を買って来いと。
 事後処理やらなんやら、色々と世話になっているので大人しく引き受けたのだが、このわたしをパシリに使うとは、あの爺さんも騎礼に負けずなかなかの……。

「へぇ、それで何を買うんですか」
「それが、種類はわたしのセンスに任せるとか言われちゃって、そういうのって一番困るのよねぇ」

 任せるとか言って、そのくせ自分が気に入らないとゴチャゴチャ文句を言う人間は多いのだ。あの老神父がそう言う人間だとは思わないが、それでも、何だかわたしのセンスを試されている様でいい気はしない。

「あ、そうだ。桜はコレから時間ある?」
「ええ、少しくらいなら」
「だったら、貴方も手伝ってくれないかしら? 花を選ぶの」
「良いですよ。あんまり詳しく無いですけど」
「ありがとう。じゃぁ、それは半分わたしが持つわ」

 桜の両手にぶら下がった袋の片方を受け取って、わたしたちは並んで花屋へと歩き出した。
 ふと思う。こんな風に、彼女と並んで歩くのは初めてだな、と。

「綺麗ですね、夕焼けが」
「わたし、夕焼けって聞くと、何故か連想されるのが走り高跳びなのよねぇ」

 それはあの日、あの赤く染まった景色と共にわたしの中に焼きついた風景。今も鮮烈に、わたしの記憶の中にある彼との出会い。
 不意に桜が足を止めた。
 わたしも立ち止まり、桜を振り返る。
 遠く、山々の陰に沈もうとする夕日の強すぎる光に、わたしは目を細めた。
 立ち尽くす桜の顔は逆光の所為でよく見えなかったけど、彼女は泣きそうな顔をしていた気がする。何故だか、そんな気がした。
 わたしは声を掛けることが出来ず、掛けるべき言葉を見つけられず、呆然と彼女を見つめ続けた。
 そして彼女は泣きそうな顔のまま、とても、とても嬉しそうな声でこう言った。

 ────私も、です。





 教会からの帰り道、他に人気の無い橋の上を独り歩く。
 ゴウゴウとなる風の音を、横を通り過ぎる車のエンジン音、川を流れる水の音、遠く微かに聞こえる街の喧騒。様々な音がわたしの頭をグチャグチャにかきまわす。

 ──ああ。未練なんて、きっと無い。

  そう言い切った彼を、素直に凄いと思った。

 それでも──こんな事があったと、セイバーっていうヤツが好きだったって事だけどは、ずっとずっと覚えてる。

  その真っ直ぐな想いを格好いいと感じた。

 ──そんな彼を、そんな彼だからこそ、わたしは……。
 でも、同時に思う。
 いっそ、未練を引きずっていてくれれば、忘れろと言う事もできたのに。
 いっそ、つらいと、悲しいと落ち込んでくれれば、慰めてあげる事もできたのに、と。
 そんな事を考えてしまう自分が居る。
 そんなことを考えてしまう自分を、嫌悪する自分が居る。
 欄干にもたれて川を見下ろせば、そこには水面に映った月が、ユラユラと形無く揺れていた。
 何故だか、それが酷く嫌なものに思えて視線を上げれば、うって変わってそこには真円を描く月が、悠然とわたしを見下ろしていた。
 わたしは、空に、手を伸ばす。
 もしも、この伸ばした腕があの月に届いたならば、何かが変わるだろうか?
 夜空に輝く星を掴んだならば、わたしは変わる事が出来るのだろうか?
 しかし、伸ばした腕は何も掴む事無く、力なく下ろされる。

「あほらし」

 今更、お星様に願いを掛けるお年頃でも無いだろうに。
 もたれていた欄干から体を起こし、わたしはまた歩き出す。

「待つのは嫌いなはずだったのにな」

 その呟きは、誰に届くこともなく、夜の闇に吸い込まれて消えていった。
 穏やかな春の夜、もう寒さは感じない。
 いまいち信用できない天気予報は、明日は晴れだと言っていた筈だ。
 きっとわたしは明日も早起きをして、眠い目を擦りながら坂道の終わりの十字路を目指すのだろう。





END





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