静寂が怖い。暗闇が怖い。夜が怖い。嫌な事を考えてしまわない様に、恐る恐る目を閉じる。早く朝が来る事願いながら、しかし、朝なんてずっと来なければ良いと思う。私は『明日』が怖い。

 彼を起こさない様にそっと布団から出る。歩くとギシギシと鳴る床を静かにしろと宥めながら、飾り気の無い無愛想な玄関をくぐって庭へ出る。ぐっと伸びをして頭上を見上げると、空がとても重かった。控えめに、上品に、でも魅惑的に美しく輝く星たちの姿は無く。まるで空に蓋をしたかの様に雲が垂れ込めた、そんな暗い夜だった。

「凛?」

 視線を下ろすと、縁側からこちらを見ている彼が居た。静かに部屋を出たつもりだったが、起こしてしまったのだろうか。もしかしたら、最初から眠っていなかったのかも知れない。

「君が、凛だろう」

 肩を震わせ、白い息を吐きながら彼が言った。私は無言で首を縦に振る。そんな私に、彼は苦笑いしながら「そうか」とだけ言い、それから私と同じ様に冬の夜空を見上げた。




 P

RISM






 兆候が無かった訳ではないけれど、それを見抜けなかったのは、言い訳に聞こえるが仕方なかったとしか言い様が無い。本人ですら気づくことが出来なかったその変調とも呼べない些事を、どうして他人が見抜けようか?
 その頃は仕事が立て込んでいて、自分も彼も相当テンパッて居たからただ単に疲れている所為だと思っていた。付け加えると、彼には元々抜けている所があったし。そんな事を言うと「お前もそうだろ」なんて、口を尖らせて言い返されそうだけど。兎に角、気づいた時には全てが遅かった、いや、気づいていたとしても、手の施しようがあったのかは疑問だけど。

「士郎、貴方だいぶ髪伸びたわねぇ」

 ソファーに寝そべり、キッチンを忙しなく動き回る彼を目で追っていると、邪魔そうに前髪をかき上げる彼の仕草がちょくちょく目に入った。コンロの火を止めて振り向いた彼は、目に入るまでに伸びた前髪を引っ張りながら「そう言われてみれば」なんてのたまう。昔からそうだが、服装だとか髪型と言ったものに彼は関心が無い。無頓着という訳ではないので最低限気を配ってはいるが。

「アンタね、毎日鏡見てるのに言われなきゃ気がつかないの?」
「いやぁ、鏡なんてそんなに一生懸命見ないからなぁ。自分の顔何て見ても面白くないし」
「面白いとか面白くないとか、そういう問題じゃないでしょう?」
「あー、まぁ、そうなんだけどさ」
「今日の打ち合わせは早く終わるっぽいから、その後で切りに行きなさいよ。私がいつも行ってるお店教えてあげるから。それから服も買いに行きましょ」

 窓の外は気持ちの良い青空が広がり、開け放たれたそこからは爽やかな春風が流れ込み、レースのカーテンを揺らしている。朝食の乗った皿を手に士郎がキッチンから出てきたので、私も起き上がって食卓に付いた。因みに、私は決して士郎に朝食の支度をさせて自分はグータラしていたのではなく、我が家の食事の用意は当番製になっており、今日は士郎の番なだけだ。

「切るだけじゃなくて染めてみる? それ」

 彼の真っ白な髪の毛を指して尋ねる。いつ頃からだったか、恐らく魔術の副作用が原因だと思われるが、彼の赤かった髪は段々と色素を失い真っ白になった。それから肌の色も変わった。黄色人種として一般的な色だった彼の肌は、今では日焼けした訳でも無いのに浅黒い。日本に帰って昔の知り合いに会っても、恐らく彼が衛宮士郎だとは気づかれないであろうその姿は、自分を頼むと言って消えた彼と瓜二つで、彼らが同一人物であった事を改めて実感させる。まぁ、今の士郎は私の尽力あって、あんなに捻くれてはいないけど。

「いや、メンドイから切ってもらうだけで良いや」
「わかった、後で電話して予約入れとくわね。それじゃ、予定も決まった所で朝食を頂くとしますか」

 丁度のタイミングでチンッと鳴いたトースターからパンが飛び出す。最初は頑なに「朝は和食でないと一日の活力が沸かない」などとごねていた士郎も、今ではすっかり洋風の朝食に抵抗が無くなったみたいだ。って言うより、士郎が納得出来る様な和食の為の材料なんて、ここでは手に入りにくかったりちょっと高かったりするから、嫌でも何でもパンを食べるしか無いんだけど。

「5年か、そりゃ士郎もパン食になれるわよねぇ」
「ん? 何の話だ?」
「ロンドンに、時計塔に来てから結構経ったなって。パンを齧る士郎を見てたらしみじみと感じちゃったわ」

 何だそりゃ、と苦笑する彼。私はお気に入りのマーマレードをたっぷり塗りつけて、トーストに齧りつく。爽やかな甘みと、それを引き立てるほんの少しの苦味が口いっぱいに広がった。





 時計塔敷地内にあるオープンカフェには、天気が良い事もあって、昼前にしては多くの人が居た。一応魔術の総本山と言われるだけあって、ここには─自分も含めてだが─世界中から魔術師を志す者たちが集まって来ている。周囲をざっと見回しても、年齢、性別、人種、等、実にバラエティに富む。

「なあ、あそこ。あの人じゃないのか?」

 士郎の指した先を見ると、こちらに向かって小さく手を振っている女性の姿が目に入った。軽く手を上げてそれに応え、少し早足に彼女の元へ向かう。

「まだ約束の時間まで15分もあるわよ。いったい何時からここに来てたのよ?」

 すかさずやって来たウェイターへの注文を士郎に任せ、腕時計を指して目の前に座る小柄な女性に尋ねる。

「1時間くらい前ですー。天気が良かったから」

 そう言って微笑む彼女の手には1冊の本。それは決して色気の無い魔術書の類でも堅苦しい小説の類でもなく、コミカルな絵が描かれた日本のマンガ。態々日本に住んでいる知人に頼んで送ってもらっているというその本は、勿論英語に翻訳などされている筈も無く、吹き出しに書かれているのは私にとっては馴染み深い、けれど、マリアなんて名前を持った、生まれてから一度も日本に行った事の無いという金髪碧眼の女性にはあまり馴染みの無さそうな、平仮名、漢字、カタカナの群れ。

「相変わらずそんなのばっかり読んでるのね」
「ええ、好きですからー。リンは嫌いですか? マンガ」
「嫌いじゃないわよ、日本に居た頃は少しは読んでたし。態々航空便で取り寄せてまで読みたいとは思わないけどね」

 そんなお金無いし……。

「そんな事より、さっさと仕事の話を始めましょう」
「あらら、せっかちさんですねぇ。こんなに良い天気なんですから、もう少しお話しましょうよー」
「良い天気だからよ。この後士郎とデートなんだから」
「えー、だったら昨日の内に教えてくださいよー。そしたらわたし、シロウの為にもっとおしゃれして来たのにー」
「わたしと士郎が行くのよ。アンタ関係無い」
「えー、仲間外れなんて酷いですー」
「酷い訳あるか」

 世の中不思議な事は多々あるが、マンガを読む為だけに魔術の基礎より先に日本語をマスターし、つまらない魔術書を読む時間があるなら面白いマンガを読むと言い切る彼女は、何処をどう間違って協会のエージェントなんて職に就いたのだろうか? しかも、わたしたち、何故かこの変なのに気に入られてるっぽいし。まぁ、悪いヤツではないし、割りの良い仕事回してくれるから助かるけど。

「シロー、貴方はわたしとデートするの嫌ですか?」
「んー、デート云々とか、それより何より、先ず先に聞きたい事が」
「聞きたい事ですか? それはもう、スリーサイズとか、お風呂では何処から洗うのかとか、何でも聞いちゃってくださいー」
「えーと、失礼ですけど、どちら様でしたっけ?」

 マリア、笑顔のまま固まる。わたし、爆笑。

「あはははははは! いい、士郎、今のはいいわ」
「酷いです、シロウ。リン以上に酷い人なんて、もう人じゃありませんー」
「え? あ、いや、別に冗談とか、からかった訳じゃ……。って言うか、俺がからかわれてる?」

 しどろもどろな士郎は、演技でなく素で慌てていた。

「あのー、シロウ、もしかしてホントに私の事忘れてます?」
「忘れてって、会った事あたっけ?」
「はぁ? アンタ何寝ぼけた事言ってんのよ。マリアと会った回数なんて何十回じゃ利かないわよ」
「マリア? 貴方がマリアさん?……」

 顎に手を当てて考え込む士郎。いったいどうしたと言うのか、少し俯き加減な彼の表情は真剣というよりも深刻。

「マリアさんって、そんなに髪の毛短かったっけ?」
「ちょっと前に切ったんですよー、何となく伸ばしてたのがすごーく邪魔になってきたのでー」

 肩口の少し上辺りで切り揃えられた髪を、人差し指でくるくると弄りながら彼女は説明した。腰の辺りまであった長く美しい髪をばっさりと切った彼女には流石に私も驚いたし、その理由をアニメキャラのコスプレの為と聞かされた時は呆れ果て、眩暈すら覚えたものだ。

「そういえば、リンとはちょくちょく会いますけど、シロウと会うのは髪を切ってからは初めてですねー。お久しぶりですー」
「ああ、それでか。うん、マリアさんですよ、貴方はマリアさん。久しぶりだね」
「意味わかんない事言ってんじゃないわよ。って言うか、アンタは髪切ったくらいで知り合いの顔も分からなくなるの?」

 遠目にと言うなら兎も角、目の前で見て、喋ってるのを聞いて、それで尚分からないと言うのはシャレにならないのではないだろうか? そりゃ、普段からちょと抜けてる所の在るヤツだけど、それとこれとは──って、そう言えばわたしも士郎とアーチャーを同一人物だって見抜けなかったのよね。

「いや、凄く長い髪だったじゃないか。それをばっさり切ってだいぶ雰囲気が変わってたから、見違えたというか……」
「うふふ、少し髪が伸びてから会ったら、また忘れられちゃってそうですねー。これからは最低でも週に1度はシロウに会いに行かないといけませんかねー」
「いいわよ、来なくて。って言うか来んな」





 カシャリと音がしてシャッターが切られ、わたしはレンズに、その向こうに居る士郎へ向けていた笑みを解く。士郎が持っているのはデジタルカメラだからシャッター音はただの効果音に過ぎないんだけど、やはりあの音があると雰囲気が出て良い。何が良いのか自分でも良く分からないけど、何となく『よし、撮った!』みたいな満足感だか充足感だかを呼び起こすと言うかなんと言うか。

「それ貸してよ。今度はわたしが士郎を撮ってあげる」
「良いけど、壊すなよ?」
「シャッターボタン押すだけで壊れるなら、それは私の所為じゃないわ」

 基本的に電子機器が苦手な私は、ビデオの予約は出来ないし、パソコンもよく分からないし、携帯やPDAも使いこなせない。炊飯器や電子レンジは使えるので、どうやら自分は1工程、良くて2工程以上の操作を要求される機械の操作は出来ないらしい。

「それにしても、付き合いだして何年も経つのに、未だに出かける度に写真なんて撮ったりして、我が事ながら、いつまでも初々しいわ」
「いいじゃないか、別に。嫌だって言うなら止めるけど」
「嫌じゃないわよ」

 趣味は料理、洗濯、掃除です、なんて言いそうな士郎の唯一生活に密着しない趣味が写真なんだから、駄目とは言えないし、言う気も無い。わたしも士郎に写真撮ってもらうの嬉しいしね。
 カシャリとシャッターを切って、液晶画面を覗き込む。よし、良く撮れてる。前のカメラで撮った時はピンボケしまくりだったけど、ちょっと前に買い換えたこのカメラには、手ぶれ補正機能なる物が付いていて、詳しい事は分からないけど、要するにわたしの様なヘタクソでもキチンと写真が取れるらしい。

「上手く取れた?」
「ばっちりよ。わたしの腕を信じなさい」

 わたしは得意げに画面を突き出すが、それを覗き込んだ士郎は訝しげな顔をする。

「何よ? きちんと撮れてるでしょう?」
「ん、いや、写りに問題は無いんだけどさ」
「じゃ、何よ?」
「俺の髪型」
「髪型? 別に変だとは思わないけど。どっちかって言うとさっきまでの方が変だったわよ、伸び過ぎで」
「あー、そういう事か。いや、うん、別に何でもないんだ。気にしないでくれ」
「ま、良いけどね、っと」

 空に向けてシャッターを切る。

「何撮ったの?」
「空よ。すごく綺麗だったから」
「ああ、そうだな。今日の空は残して置きたいな」

 彼は空を見上げる。羨望の眼差しとは、青空を見上げている人の眼差しだと、昔誰かが言っていたのを思い出した。なるほど、今の士郎の顔はまさしくそんな感じだ。一つ頷いて、わたしも蒼穹に羨望の眼差しを向ける。そこには聊かの濁りも無く、太陽だけが孤独に、でも力強く輝いていた。

「眩しいな」
「あんまり太陽眺めてると目が悪くなるわよ」

 わたしは眩しさに耐え切れず視線を下ろす。

「あのさ、俺……」
「何?」
「もしかしたらなんだけどさ」
「だから何? はっきり言いなさいよ」

 口ごもる彼に少し苛立ちを感じ、少し口調がきつくなってしまう。第六感だか何だか知らないが、何か良くない感じがする。彼にその先を言わせてはいけない気がする。でも、わたしはそれを聞かないと、それを受け止めないと、きっと後悔する事になる。そんな気がする。

「うん、あのさ、俺──」

 ────ボケちゃったみたい。

 わたしは間違えて、カメラのメモリーを消去してしまった。





 アンタは昔からボケボケでしょう? そんな風に笑い飛ばせたらどんなに幸せだっただろう。
 人々の顔が、人々の声が、約束が、思い出が、全てが薄れ、消えて行く。それは到底笑い飛ばせる物ではなくて、でも目の前の、当事者たる士郎は酷く落ち着いた様子で、逆にわたしが混乱しそうだった。
 原因は不明だが、恐らくは魔術の行使による反動、副作用。髪の色、肌の色、世界の理すらを超越する魔術の対価には、それだけでは足りなかったのだろう。わたしは時計塔にあるありとあらゆる文献をあさり、知り合いの魔術師全員に助力を求めたが、打つ手は無く、士郎の記憶は日に日に削られていった。

 日本に帰ろうと言い出したのは士郎ではなくわたしだった。寝る間も惜しんで、半年以上の月日を東奔西走した結果は、己の無力さを痛感させられただけ。それで諦めたと言う訳では無いけれど、日本に、あの町に、あの家に帰れば、何かあるのではと、もう蜘蛛の糸にでも縋る気持ちだった。

「ああ、良いね。久しぶりにみんなに会える」

 みんなで写真を撮ろう、そんな暢気な事を言って笑う彼は、決して諦めた風でも開き直った風でもなく、ただあるがままに現実を受け入れる。

「一成は俺が記憶喪失だって知ったらどんな説教するのかな? 慎二なら笑って皮肉の一つも言いそうだけど」

 笑う。

「藤ねぇはあんまり変わって無さそうだなぁ。って言ってもあんまり思い出せないから、変わってても分からないけどな」

 笑う。

「桜も、手紙のやり取りはしてるけど会うのは久々だなぁ」

 笑う。

 理解できない。何故笑えるのか、何故そんなにも平気な顔で居られるか。
 ────わたしは泣きたくて仕方が無いのに。

「笑う門には福来るって言うだろ?」
「言っちゃ何だけど、アンタの人生って不幸続きじゃない? いったいいつになったら福は来るのよ」
「もう来たよ」
「いつよ?」
「内緒」

 彼は笑った。





 学校、公園、商店街、教会に柳洞寺、一縷の望みにかけて士郎を連れ歩いたが、それは単に彼に『忘れている』という事を自覚させるだけの作業にしかならなかった。聖杯戦争も、あの大火災も、彼はもう思い出せない。

「まさか、セイバーの事も忘れているなんて、薄情なマスターね」

 想いの大小など関係無いのだろう。彼の意思では制御できないその選定者は、無選別に無差別に、手近なものから掴んで無造作投げ捨てる。それは玩具箱をひっくり返す幼子の様に、あるいはゴミをあさる野良猫の様に。

 帰ってきたのは失敗だったかも知れない。生まれ故郷を、観光者の目で歩き回る士郎を見て、わたしは後悔し始めていた。

「士郎、ゴメン」
「何が?」
「良く分かんないけど、兎に角ゴメン」
「んー、じゃぁ良く分からないけど許すよ」

 優しく頭を撫でられる。何故だろう? 辛いのも、怖いのも、苦しいのも、わたしより彼の方が何倍もそう感じているはずなのに、何でそんな風にやさしく居られるのだろう。

「士郎、アンタやっぱり馬鹿なんでしょう」
「そんなの、ずっと前から知ってただろう?」

 ええ、知っていたとも。初めて会った時から、いや、初めて見た時から、そんな事は知っていた。

「学園一の才媛が隣に居るんだ。安心して馬鹿で居られるよ」

 そんな事は無い。わたしは何も出来ない、何もしてあげられない、今だって、本当ならわたしが士郎を慰めてあげないといけないのに、逆に慰められている始末だ。聖杯戦争の時にだって、こんなにも自分が無力だと感じたことは無かった。

「笑っていてよ。そうしたら俺は大丈夫だから」

 昔からこの男は、何でもない事のように、無理難題を人に押し付けるのだ。





 作り笑いに力の無い足取りで部屋を出て行く彼女の背中を、引き止める事も、声をかける事もできずにただ見送る。彼女の中で衛宮士郎がどれ程のウェイトを占めていたのかは計り知れないが、決して軽くはなかっただろう。その彼と過ごした日々が、彼の中に居たはずの自分が無かった物にされてしまったのだ。安っぽい慰めなど、どうしてかけられようか?

「君は誰?」

 その言葉は鋭く尖った槍となって、その言葉は銀の銃弾となって、彼女の胸を貫いた。

「ごめん、覚えてないんだ」

 自分というモノが、他者から与えられる『他人』という定義の中で存在を確立されるのもだとしたら、間桐桜は今、死んでしまったのだろう。自分を見つめる、知っている人間の知らない視線に心臓を貫かれた時、ソレを桜が自覚した時、衛宮士郎の中に生きていた「家族同然の後輩」であった間桐桜はこの世界から消えてしまったのだ。

 自分の腕に鳥肌が立っているのに気づく。心臓が激しく収縮し、こめかみの辺りがジンジンしている。自分が言われた訳では、自分が忘れられた訳でも無いのに。吐き気がした。眩暈がした。視界がぐるぐると回り、世界が回り、現実感が薄れていく。悪い夢を見ている、そう思いたかった。

「凛、大丈夫か?」

 名前を呼ばれ、はっとする。不快感がみるみる引いて行き、こみ上げる安堵。さっきまでは、あんなに怯えていた癖に、一言名前を呼ばれただけでこんなに安心できるなんて、わたしも案外単純だ。自己嫌悪すら覚える。

「女の子泣かせて、ろくな死に方しないわよ」
「知ってるよ。それに俺、もう閻魔様にも予約入れてあるから」
「わたしは天国行くから、死んだらお別れね」
「それは残念。いや、でも死ぬまでは一緒に居てくれるんだ」
「気分次第ね」
「じゃ、がんばってご機嫌とらないとなぁ」

 士郎は立ち上がって台所へ向かい、わたしはリモコンを掴んでテレビをつける。テレビが見たかった訳ではない。ただ、静か過ぎるこの部屋に、雑音が欲しかっただけ。

『ごめん、覚えてないんだ』

 音量をうるさい程に上げる。

『君は誰?』

 わたしが殺されるのは何時だろう、その時、わたしはどんな顔で何を言うのだろう。テレビを消しリモコンを乱暴に投げ捨てると、寝転んで天井を見上げる。睨み脅してみても、天井のシミはなんのアドバイスも慰めの言葉もくれなかった。





『君が、凛だろう?』

 そういわれた時、心臓が張り裂けるほどに脈打った。頭が真っ白になった。彼の言葉に頷きながら、とうとう訪れた終焉に叫び出したい衝動に駆られた。
 彼は、わたしを、忘れてしまったのだ。わたしは、衛宮士郎の中の遠坂凛は死んだのだ。でも────

「わたしの事忘れちゃったんでしょう? 何で凛って呼んだの? 何で私の所に来たの?」
「ここに書いてあったんだ」

 彼が差し出したのは赤い装丁のノート。無言で受け取ってそれを開く。

 ──1月11日 曇り
 一成や美綴の事が思い出せなくなった。自分の記憶が、自分の世界が崩れていくのを実感する。

 ──1月12日 晴れ
 凛との会話がぎこちない。彼女の怯えを感じながら何も出来ない自分に、そんな顔をさせている自分に腹が立つ。

 ──1月13日 晴れ
 日記の情報から自分という人間を確認するなんて、なんて滑稽な話だろう。自分が衛宮士郎である事に自身が無くなって来る。もしかして、俺は衛宮士郎の振りをしている、或いはさせられている誰か別の人間なのでは、などと考える自分が居る。

 ──1月14日 雨
 日に日に思い出せる事が少なくなって行く。眠るのが怖くなった。

「これ、は……」
「俺の日記らしいな」

 彼は、自分自身の事ですら他人事の様に言った。
 ひらりと、不意に白い物が視界に映る。それは地面に触れると、すうっと呆気なく消えて無くなった。その儚さが胸を穿ち、わたしは歯を食いしばる。

「このページ、ここだよ」

 彼はページを捲って日付を戻し、ある一文を指差した。

 ──11月6日 曇り
 悪足掻きだけど、覚えている内に大切な人たちの事を書き連ねて置いた。

 その後には延々と彼の知る人々の事が事細かに書かれていた。イギリスで知り合った人々。日本での知り合い。そして藤村大河、間桐桜、柳洞一成、衛宮切嗣といった、彼に近しい人々。あまり上手くはない文字で、細かくびっしりと、外見の特徴、性格、趣味趣向、そして彼らとの思い出が綴られていた。まるで想いを抉り出す様に。
 わたしは並べられた決して多くは無い名前の中から、自分の名前を探す。それは一番最後にあった。しかし、一番最後に、彼の一番奥深くにあった遠坂凛の項目には、たった一行、たった一言しか書かれていなかった。

 ────隣に居る人。

 私はノートを閉じ、顔を上げる。言葉は無かった。言葉で言い表せるモノは無かった。悴んだ手が、大きくて冷たい手に包まれる。隣に、彼が居た。私は彼の隣に居た。きっと、ここがわたしの安全地帯。

「君が、凛だろう?」
「ええ、そうよ。初めまして、って言ったら変かしらね?」
「変だな。でも、変だけど、変じゃない」
「何それ?」

 彼は、笑った。
 私も、笑った。

 それからわたしたちは何も言わず、ただ繋いだ手にお互いの温もりを感じながら空を見上げていた。あの日二人で見た青空は今そこには無く、もう彼の記憶にも無く、私の胸の奥にだけ息づいている。暗い空、暗い夜、暗い世界。あの日わたしたちの目を焼いた太陽の眩しさも、覚えているのは私だけ。
 わたしは遠坂凛で彼は衛宮士郎。私たちは同級生で、師匠と弟子で、恋人で、そして他人だった。

 深々と、淡々と、雪は降り積もり、世界を覆い尽くしていく。まるで、世界を自分たちの物にしようとするかの様に。ちっぽけで、無力な二人は、両の手が届く範囲ですら自由にできず、残された世界はたった足の裏の分だけ。寒さに、寂しさに、悔しさに、愛しさに耐え、それを守り抜く。わたしたちに残されたのは、わたしたちに出来るのは、たったそれだけだから。風が全身を冷たく、しつこく愛撫する。揺れる木々が、カタカタと鳴る窓が、お前たちは滑稽だと嘲笑った。
 やがて空が明るくなってくる。白の軍勢は侵攻を諦め、空の彼方へ撤退していく。目を覚ました鳥たちが囀り、わたしたちの勝利を称える歌を謡う。木の枝にしがみ付いていた雪は力尽きて次々と地面に落ち、無様に這い蹲った。

「朝だな」
「そうね」

 二人とも声が震えていた。彼の唇は真っ青で、きっとわたしの唇も同じ色をしているのだろう。

「朝日が眩しいな」
「そうね」

 重役出勤で出てきた冬の太陽が、世界を辺りを照らし、雪は最後の抵抗とばかりにその光を跳ね返す。

「眩しいな」
「そうね」

 もう一度、彼が言った。キラキラ、キラキラと乱反射する光が世界を白い闇へと変えていく。世界は目に痛いほどに容赦なく輝き、わたしたちはその中心で呆然と立ち尽くす。どうしようもないくらいに眩しかった。眩しくて、涙がこぼれた。

 目指したものは
 夢見たものは
 願ったものは
 欲したものは

 夢も現も、未来も過去も、希望も絶望も、もう、何も見えない。





 ────マブシクテ、モウ、ナニモミエナイ。










END





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