静かな夜だった。静かで穏やかな夜だった。
 ガラクタの散らばった埃っぽい室内には、窓から差し込む僅かな月光以外に明かりは無く、俺は紺色の闇の中で静かに物思いに揺蕩う。
 空の上の方では風が強いのだろう。雲は何処かへ急ぐ様に、足早に流れていた。
 あの日も、確かこんな風だった。
 たった8日間だけの相棒。お互いに分かり合う事も無く無く、共に何かを成す事もなく、ただ俺の胸に一生消えない傷を作って消えた少女。脳裏に蘇る彼女は、笑うでもなく、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ凛然と佇んでいた。

「ああ、分かっているさ。セイバー」

 謝罪はしない。それは彼女の想いを、彼女の誇りを踏みにじる事になるから。
 だけど────

「時々思い出す事くらい、許してくれるだろう?」

 その問いかけに答えは無く、薄暗い土蔵の中にはただ、なり損ないのガラクタたちが転がっているだけだった。




 G

ood-bye Stranger






「士郎……」

 静寂と薄闇の隙間を縫って、長身の女性が姿を現した。

「まだ起きてたのか、ライダー」
「私は睡眠を必要としない体ですから。貴方こそ、明日も学校があるのでしょう?」

 言われて思い出したが、サーヴァントは魔力供給さえ十分ならば、食事と同様に睡眠も要らないんだったな。まぁ、必要が無いというだけで嫌いではないらしく、セイバーなんて事食事に関してはかなりの拘りを持っていた。

「魔術の鍛錬をしていたのですか?」

 昔俺が投影した何だか良く分からないガラクタを見て、ライダーが言う。

「いや、独学で出来る事はもう無いからな」

 最近は桜やライダーに、魔術の初歩の初歩、研究が云々言う前の段階、魔術回路の制御や操作の基本といった事を教わっている。初歩と言っても、今までまともに勉強した事の無かった俺にとっては、それでも十分に難しく中々上達しない。
 そもそも遠坂によると、俺には魔術師としての才能が無いらしい。なんでも、特化した特性を持つ俺の魔術は、こと得意分野に関しては類まれなる可能性を秘めるが、特化するが故にそれ以外の分野では逆に伸びる可能性はあまり無いとの事だ。
 元々魔術師になる気は無かった俺も、はっきりと才能が無いと言い切られると聊か落ち込む。

「眠れなかったからただぼーっと、な。何かここって自分の部屋より落ち着くんだよ。そういうライダーこそどうしたんだ?」
「私も眠れなかったので庭に出た所、ここに人の気配がしたので」
「そっか……」
「隣、良いですか?」

 俺は頷き、散らかった物を片付けて人一人分のスペースを確保する。ライダーは礼を言う代わりに薄く微笑んで、固い床の上に腰を下ろした。
 並んで座った俺たちだが二人の間に会話は無く、何をするでもなくお互い無言で、ただお互いの存在を感じながらそこに座っていた。緊張するでもなく、邪険にするでもなく、意識しながら意識せず、空気の様に自然に。
 そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。流れ行く雲を眺めていた視線を落としてふと伺い見たライダーは、その魔性の瞳を閉じ、背筋を伸ばし、瞑想に耽るが如き静謐さでそこに居た。
 とても、とても綺麗だった。
 なぜだか、少し泣きたくなった。

「何を、後悔しているのですか?」
 不意に、ライダーがそんな事を言った。
 眼鏡の奥に輝く魔眼は俺を見てはいなかったが、その言葉は確かに俺に向けられたもの。
「色々さ。後悔せずに終わる一日なんて、長い人生でもそうは無いだろう?」
 俺は笑った。





「──輩、先輩、どうかしたんですか?」

 名前を呼ばれ気がつくと、隣に座る桜が心配そうな顔で俺を見ていた。

「あんまり食が進んでないみたいですけど、具合でも悪いんですか?」
「いや、ちょっと考え事をしてただけだから、体調は問題ないよ」
「そうですか。でも、本当に体調が悪いのなら無理しないでくださいね」

 そういって、彼女は柔らかく微笑み食事を再開する。

「士郎、食欲無いんだったらお姉ちゃんにその玉子焼きちょうだーい」
「だから、食うっつってんだろーが」

 向かいから伸びて来た箸を、すかさず迎撃する。
 そんな俺たちには無関心で、一人黙々と箸を進めるライダー。一瞬、彼女は微かに何かを言いたそうな視線を俺に向けたけれど、結局何も言わずに食事を続けた。

「じゃ、私は今日職員会議があるから、先に行くわねー」

 食後のお茶もそこそこに、藤ねぇは慌しく出て行く。

「桜は朝練は?」
「もちろんありますよ。大会も近いですから」

 主将に抜擢されたからなのか、最近の桜は驚くほど熱心に部活に取り組んでいる。別に前までが不真面目だった訳じゃないけれど、何ていうか、取り組む姿勢が変わった。それまでは何時も一歩下がった所に居た彼女が、立場の所為もあるんだろうけど、先頭に立って部員を引っ張っているのだ。
 そしてそれは部活に限った事ではなく、端的に言うと桜は昔に比べてポジティブになった。

「だったら、少し早いけど俺たちも行くか」
「そうですね」

 桜は立ち上がると湯飲みを片付けようとしたが、ライダーがそれを制止して代わりに片付け始める。

「サクラ、片付けは私がしておきますから、貴方と士郎は学校へ行ってください」
「ありがとう。じゃぁ、お願いしますね。先輩、私鞄取ってきます」
「ああ、時間はあるから急がなくていいぞ」

 俺は座ったままで、早足で部屋を出て行く桜の背中に声をかける。

 時計を見ると、丁度天気予報をやっている時間だったので、リモコンを拾ってテレビをつけた。窓の外は気持ちの良い青空が広がっているが、念の為に見ておいても損は無いだろう。

「降水確率30パーセントかぁ、微妙だなぁ……」

 折り畳みの傘はこの前壊れちまったし、置き傘も藤ねぇに折られちまったからなぁ。っつーか、掃除の時間に教師が生徒とチャンバラすんな、藤ねぇ……。

「先輩、お待たせしました」

 天気予報を信用するかしないかを思案していた所に、桜が鞄を手に戻ってくる。

「よし、行くか。ライダー留守番頼むな」
「はい、二人もしっかり勉強に勤しんできてください」

 そして、ライダーに見送られて二人で家を出る。
 結局、傘は持って行かなかった。





「あーー、俺の愚か者めが……」

 ホームルーム直後、一日のお勤めから開放された生徒たちのざわめきに満ちた教室の片隅で、机に突っ伏して自らの愚かさを呪い後悔に沈む。
 窓の外に広がる空は、朝の快晴が嘘か幻であったかの様に分厚い雨雲が蓋をしていた。しとしとと静やかに降る雨音ですら、思慮の浅い俺を嘲笑っている様に聞えるのは、きっと被害妄想。
 ライダーに傘持ってきてもらおうかなぁ。多分、彼女なら嫌とは言わないだろうけど……、サーヴァントに傘を持って来させるって、なんか畏れ多い事だよなぁ。
 そんな事を延々考えていた所で、見知った顔が教室に入ってくるのが見えた。向こうも、俺が気付いた事に気付いて、ニコリと笑う。

「どうしたんだ桜、部活じゃないのか?」
「今日はお休みになったんです。だから先輩と一緒に帰ろうと思って……」

 何やら顔を赤らめてモジモジとする桜の手には、一本の赤い傘が。

「あ、桜傘持ってたんだ」
「いえ、あの、友達が、貸してくれて、その子は別の友達の傘に入れて貰うからって、だから、その、先輩と一緒にどうぞって」

 シドロモドロになって経緯を説明する桜は、なんだか小動物的な可愛さがあった。傘を貸してくれた子の気持ちが、何となく分かる気がする。それと、俺をからかって遊んでいた遠坂の気持ちも……。

「あの、先輩が嫌なら、ライダーに頼んで傘を持ってきて貰いますから」
「いや、それは止めた方が良い。ライダーが学校になんて来てみろ、ある意味で大問題だぞ」

 よく考えたら、ただでさえ桜と付き合ってるって事で多くの男子生徒からは睨まれているのに、その上あんな美女と一緒に暮らしている事がばれてみろ、嫉妬に狂ったヤロウどもが何を仕出かすか分かったもんじゃない。
 それに────たまには見せ付けてやるのも悪くないなんて、思ってみたりもする。

「それじゃ、お言葉に甘えて相々傘で帰るとしますか」
「は、はい!」

 真っ赤な傘を手に、真っ赤な顔で頷いた彼女の手を引いて、学校を後にした。





 二人で歩く道すがら、桜は色々な事を話す。学校でも事、家での事、友達の事、家族の事、テレビで見た事、本で読んだ事。楽しそうに、嬉しそうに、笑顔で、話をする桜。
 だけど、俺は知っている。
 彼女が闇を恐れ、孤独に怯え、眠る時に明りを消せない事を。罪に苛まれ、悪夢に魘され、夜中に度々目を覚まし泣いている事を。

「桜、あのさ……」

 ────今、幸せ?
 出掛かった言葉を慌てて飲み込む。何て馬鹿な、何て軽率な事を言おうとしたんだ、俺は。

「何ですか、先輩?」
「あ、ああ、いや、今日の夕飯は何が良いかなって」

 訝しげに俺を見る桜に、当たり障りの無い誤魔化しをしながら、心の中で彼女に謝罪する。
 きっと、桜は頷くだろう、自分は幸せだと笑顔で答えるだろう。そして、それを聞いた俺はこう尋ねる。

 ────本当に?

 それは、最低の行為だ。

「先輩、私雨ってあんまり好きじゃないんですけど、こんな風に先輩と一緒に帰れるなら、たまには良いですよね」
「ああ、そうだな。たまには、こういうのも悪くないな」

 雨の所為か少し肌寒く、それ故に組んだ腕から伝わる彼女の温もりが、一層強く感じられた。
 道の反対側を、俺たちと同じ制服を着た男女が、ずぶ濡れになりながら、それでも楽しそうに手を繋いで駆けて行く。その背中をなんとなしに眺めながら、俺は歩を続ける。桜が濡れないように、傘の向きを直しながら。
 家に着くまでの間、桜は始終笑顔を浮かべていた。その裏に色々なものを抱えながら、それでも──だからこそ彼女は笑っていた。
 俺も笑った。彼女の為に俺ができる事など、数える程しかないから。
 だからせめて、彼女の為に笑っていようと思った。
 雨脚は弱まらず、この雨は暫く止みそうになかった。





 ────貴方は今幸せですか?

 昼過ぎから振り出した雨は日付を跨いだ今になっても止まず、明かりを付けずにいる土蔵の中は、いつも以上に深い暗闇が支配していた。伸ばした腕の先にある自分の掌すら朧げな、そんな黒色の世界に聞える雨音は、何時にも増して冷涼な響きを持っていた。
 いつもの様に何もせず物思い耽っていると、昨日と同じ様にライダーがやって来て、何も言わず当然の様に俺の隣に腰を下ろし、そして開口一番にこう言った。

「士郎、貴方は今幸せですか?」
「…………不幸ではない程度に幸せで、幸福でない程度に不幸せだよ」

 不躾な質問に、俺は苦笑しながら答える。

「つまり、有体に言えば普通、という事ですか」
「普通で丁度良いんだよ、美味しい物だって食べ過ぎればお腹を壊すだろう?」
「多くを失くした末に勝ち取ったモノがそれで、貴方は満足なのですか?」
「戦いに勝ったら幸せになれるなんて、そんな決まりは何処にも無いよ。でも、勝てば少なくとも不幸にはならずに済む。それから先はまた別の話さ」

 これは俺が望んだ道、欲したのはただ一人の少女。彼女は今、自分と共にありふれた日々を過ごしている。
 今は、それで十分ではないか。

「戦いは終わった。もう敵は居なくなった。けれどサクラは今も尚、人知れず苦しんでいます。それなのに、桜のサーヴァントである私にできる事は何も無い……」

 人を遥かに超える力を持つサーヴァントが、自らの無力を嘆いた。人を超えた身体力を持ち、人を凌駕する魔力を持ちながらも、その心は人間のそれと変わらないから、傷つき、悩み、喜び、笑う。俺の剣になると誓ったサーヴァントも、実に表情豊かな少女だった。
 そして、今俺の隣で項垂れる彼女は、伝説に登場する妖女でも、聖杯戦争を勝ち残った黒い死神でもなく、ただ家族を案じる一人の人間だった。

「じゃぁ、一緒に考えよう」

 無意識に、彼女の手を取ってそんな事を言っている自分が居た。
 嬉しかった。同じ想いを持つ人が居てくれた事が。彼女と家族になれた事が。
 一人では無力でも、二人ならば何かできるかも知れない。だって俺たちは────あの最強のサーヴァントすら、打ち破ったコンビなのだから。

「俺たちは、桜の味方だもんな」

 気がつけば、雨はもう上がっていた。
 これから俺たちは、賽の河原で小石を積む様に、些細な喜びを積み重ねて、思い出という名の塔を築く。長い年月をかけて、時にその空虚さに打ちひしがれながら、それでも何時か、あの雲を越えて天に届くようにと願いながら。





 夢を見た。
 果てしなく青い空の下、何処までも終わり無く続く美しい草原で彼女に出会った。
 風が強く吹いて、草のさざめきと風の唸りが耳を叩く。
 彼女は何も言わず、俺も彼女に伝える言葉は無く、二人は微笑を交わすとそれぞれ反対の方向に歩き出す。
 次第に遠く薄れていく彼女の気配を背中に感じながら、俺は振り向かずに歩き続けた。
 何処までも、何時までも、目的地も無く、ただ歩き続けた。
 そんな、悲しい夢を見た。
 そんな、なんでもない夢を見た。





END





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